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Page8 「きっかけ」 片上椋太

ココロノオト~season2~

2023年9月23日、FC刈谷戦の試合をもって18年間続けてきたサッカー人生に終止符を打ちました。

毎朝5時45分起床。

プロテインを飲み、20分間電車に揺られながらグランドに向かい練習を行う。

このような4年間のルーティンも現在は無くなり、引退を実感しております。

 

そして今回、引退ブログを書く機会を頂いたため、私のこれまでのサッカー人生の振り返りをここに綴りたいと思います。拙い文章ですが最後まで読んでいただけると幸いです。

 

 私のこれまでの22年間の人生は、サッカーを中心に回っていたといっても過言ではありません。兄がサッカーを行っていたことがきっかけで、物心ついた時にはボールを蹴っており、幼稚園の年中にはクラブチーム入団。そこから私のサッカー人生はスタートしました。

幼稚園から小学校低学年までは、ただただサッカーというスポーツを純粋に楽しんでいました。学校から帰り、両親の送迎のもと大好きなサッカーをする。時には母と喧嘩し、一人でグランドに行った末に迷子。警察にも迷惑をかけることになり片上家の記憶に刻む大事件もありました。

その中、私のサッカー人生最初の転機は小学校4年生であったと思います。それは5年間通い続けたクラブチームを辞め、別のクラブチームに移籍したことです。この頃の私は環境が変わることを嫌い、もといたクラブチームに残ることを望んでいましたが母からの重圧のもと別のクラブチームへの移籍を余儀なくされました。

当時のことを母は「自分で移籍することを決意したのだよ」と言っていますが、私はその時のことを明確に覚えています。あれは半ば強制です。

しかし、その移籍がきっかけで大きく成長に繋がったと思います。これまで純粋にサッカーを楽しんできましたが、この時から勝負にこだわるようになりました。これは単純に試合の勝ち負けではなく、チーム内の勝負です。

もといたチームよりも選手層は厚く、当たり前のように試合に出ていた環境は失い、チーム内での競争を覚えました。試合に出るためには周りの選手よりも上手くならなければならず、当時は非常に怖かった監督の指導のもとで、小学校卒業まで必死に練習を行ったことを今でも覚えています。特別良い結果を残したわけではありませんでしたが、サッカー一筋で充実した小学校生活を送れました。

 そして小学校卒業式のステージ上で「プロサッカー選手になります」と夢を宣言して始まった中学校生活、私は伸び悩みました。

人よりも身長が伸びるのが遅く、体格差で圧倒される日々。小学生の時ほどサッカーに打ち込むことができず、プロサッカー選手とは程遠いレベルにいました。

そんな中、腐らずにサッカーを続けられたのは兄が影響しています。私が中学2年生の頃、兄は高校3年生で三冠(新人戦、総体、選手権)を成し遂げたのです。この頃、兄を誇りに思うと同時に負けてたまるかという思いが募りました。

選手権大会の全国ではスタメンとして試合に出場する兄を観て、「次は自分がこの舞台に立つ」と強く思い、中学校3年生ではキャプテンとしてチームを引っ張りながら兄を超えることを目標に県内強豪校の大手前高松に進学しました。

 しかし、兄を超えることを目標に挑んだ高校サッカーはそう甘くはありません。中学サッカーを疎かにしていた私が県内強豪校で試合に出られるわけでもなく、部員のほとんどが遠征に行っているなか、私は学校での居残り練習組にいました。

そんな中、私のサッカー人生2度目の転機はとある先生に出会ったことです。中学卒業までMFをしていた私ですが、ここでFWへとポジションの転向勧められました。

その時の言葉も大変印象的で「ゴール決めたそうだな!FWやってみろよ!」と恐らくその先生の直感に近いと思います。しかし、今の私のプレースタイルはここで生み出され、磨き上げられたといっても過言ではありません。

そこから、その先生とのほぼマンツーマン自主練習がスタートしました。活力あるその先生はたまに熱くなりすぎるところが傷ですが、シュート練習に基礎練習、体の使い方など的確な指導だけでなく、実際に選手達の中に混じり模範として見せていただいたことで、今の私のプレースタイルがあります。

そこからBチームで結果を残し続けた末、夏にはAチームの遠征に参加、選手権シーズンには1年目でレギュラーを勝ち取るなど着実に成長することができました。

その後はチームメイトにも恵まれ、高校2年生の時には選手権大会県予選の決勝という貴重な経験を頂き、高校3年生で無事優勝。兄と同じように全国の舞台に立つことができました。

これは余談なのですが、私の全国大会の会場と兄の全国大会の会場は全く同じスタジアムで、全く同じ宿泊施設であり、中学生の時に切望した「次は自分がこの舞台に立つ」がここまで一様するとは思いもしませんでした。

目標としていた三冠は届きませんでしたが、3年間通して得た新人戦・四国総体・選手権の3つの優勝は自分の中では合格点です。最高の高校サッカーを終えることができました。

 そして、全国大会出場を肩書にプロも視野に入れて始まった大学生活でしたが、苦難なことばかりでした。入部して早々、新型コロナウイルスの影響により部の活動が停止。部活動再開後も過酷なトレーニングで1日1日を乗り越えるのがやっとの状態。私がプロを目指すのを諦めたのは、この時だったかもしれません。自分の現時点の立ち位置や実力、サッカーに対するモチベーションなど全て加味したうえで大学1年生の冬にプロを目指すことを諦めました。

それでも、サッカーを辞めなかった理由は今まで向き合ってきたサッカーから逃げたくなかったからです。プロを目指すことを諦めてから自分の過去を振り返り思ったことは、幼少期の時と変わらずサッカー純粋に楽しんでいたことです。

だからこそ、「最後ぐらいは全力でやり切ろう」と決意しました。

その後の3年間は中京大学FC止まりでしたが、チーム一丸となって手に入れた全国大会は今でも最高の思い出です。就職活動中は長期間チームを離れることになり迷惑をかけましたが、戻ってからの公式戦4試合連続ゴールは私のサッカー人生を締めくくるにふさわしい3カ月となりました。

簡潔な振り返りとなりましたが、こうして私はサッカー人生に終止符を打ちました。

 

今回、自身のサッカー人生を振り返り気付いたことは、多くの方に「きっかけ」を与えてもらっていたということです。

サッカーを始めたきっかけ。

成長できたきっかけ。

腐らずにいられたきっかけ。

試合に出られるようになったきっかけ。

この短い振り返りの中だけでも、多くの方からきっかけを与えてもらっていました。

そしてそのきっかけを掴み続けたこそ、今の私があり、どこかのきっかけを掴み損ねたからこそ、今の私があるのだと思います。

与えられたきっかけを掴めず、大学サッカー止まりとなったこと、大変申し訳ありませんでした。

来年度からは一社会人として、与えられた「きっかけ」を掴むとともに、今度は「きっかけ」を与えられる大人になりたいと思います。

 

 

最後に

今まで私のサッカー人生を支え、見守り、応援してくださった方々。

本当にありがとうございました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。