Page24 「私にとってサッカーは、人生における11時台」 名越琉星
人は誰もが小さい頃に「夢」を抱くと思う。
プロ野球選手や学校の先生や医者や歌手といった色々なものがある世の中で、私が抱いた夢は
「プロサッカー選手」だった。
私のサッカー人生が始まったのは、幼稚園の年長の時である。
きっかけは、通っていた幼稚園から申し込み出来るサッカー教室に友達の皆んなが入ったので、その流れにのって私もそのサッカー教室に入った。
この教室で、サッカーの楽しさを知り小学生になっても続けようと決めた。
小学生になり、八事FCというチームに入る。
小学1年生の活動が終わり、残りの5年間もこのチームでプレーすると思っていたその矢先に、父の転勤が決まり小学2年生で大阪に行く事になった。
右も左も分からない新たな地に降り立った私は、サッカーを続ける事は決めていたので岩田FCというチームに入ったが、誰一人知らない状況下でサッカーをする事に対して少し嫌な気持ちはあった。
しかし、そんな気持ちが嘘かのようにチームメイトとは直ぐに仲良くなり、雨で練習が無くなった日でも公園で一緒にサッカーをするぐらいの友達が出来て、岩田FCの活動がない期間には、仲の良い8人組でフットサルチームを作り大会に出場するなど、毎日毎日がサッカーで埋まっていたと思う。
プロサッカー選手になりたくて、ただがむしゃらに6年間サッカーをして中学生になった。
中学は愛知に戻り、名東クラブというチームに入る。
当時の名東クラブの練習会場は、主にモリコロパーク辺りの多目的広場でやっており、家から約15kmの距離があるのにも関わらずチームメイトと共に自転車で通っていた。
往復30kmの距離を自転車で通うなんて、今では考えられない事をしてた。
練習終わりの夜の帰り道で、300mぐらいの一直線を誰が1番早く漕げるか競争をよくやっていたが、何度も転けそうになり怪我をしそうになったのも今となってはいい思い出である。
サッカー自体は、3年間で色々なポジションをやっていた事が強く印象に残っており、
中学1年生ではFWをやり、中学2年生ではSHをやり、ときにはSBもやって、中学3年生ではANをやっていた。
この時は、大学の私とは裏腹に器用な選手だったのかもしれない。
中学3年生の活動が終わった後に、私は愛知県のベスト11に選出された。
私なんかで良いのかと思いつつも、表彰式に行くと周りにはグランパスジュニアユースの選手や高校で県外のユースに行く選手が多く出席していて、興奮の中に物凄い喜びを感じていたのを覚えている。
この賞もあり、本格的にプロサッカー選手になる事を目指し高校生になった。
高校は、愛知の中京大中京に入学。
入学して早々、3年の先輩に対し挨拶をせず(※顔を覚えていなかっただけ)、それが3年生の間に広まり、個別で部室に呼び出され優しめの説教を受けるという最悪のスタートダッシュをしてしまった。
しかし、夏のインターハイ予選が始まる前にトップチームに選出され、県大会の優勝を決める試合で得点したり、インターハイの全国大会をスタメンで出場するなど、最悪のスタートを巻き返せた大会になったと思った。
この調子を続けて、選手権の全国大会にも出られるように必死に頑張っていたが、選手権県大会中の練習で怪我をしてしまい、怪我人のままシーズンが終わり浮き沈みの激しい1年間を送った。
高校2年生、何のインパクトも残せず終了。
夢の選手権全国大会に出場する為、死に物狂いで尽力する事を決意した高校3年生。
新人戦中にインフルエンザにかかる、回復後3日目に捻挫、復帰後10日で内即側副靱帯損傷、復帰して数ヶ月後の夏の遠征で分離症を発症、授業中わらび餅を食べ指導を受ける、最後の選手権は県大会ベスト4と不甲斐のない1年間で高校サッカーが終わった。
大学の4年間がプロサッカー選手になるラストチャンスだと覚悟を持って大学生になった。
迎えた大学1年生、待っていたのは鬼のようなフィジカルの日々だった。
グラウンドの駐車場に到着したら、まず見えるのはコートの四つ角に置かれているコーン。
そして練習時間になったら四等分に分かれ、それぞれの角に散らばる、四つ角にコーンが置いてないと思ったらゴールラインに並びシャトルラン。
Iリーグが始まるまでは、この走りが毎日のようにあって、それに加え朝7時からのフィットネスも行い、早朝のスクワットで何度も肉離れを起こしそうになった。
サッカー人生の中で一番走ったであろうこの1年は控えめに言って地獄だったが、確実に強くなれたと思えた1年間でもあった。
大学2年生、中京大学FCとして活動が始まったが、怪我をしてリハビリ組にいた事と紅白戦でよく指導者に叱られていた記憶がほとんどである。
思い通りの日々が続かなかったが、シーズンが終わる1ヶ月前ぐらいから、ようやくスタメンとして公式戦に出場する事が出来た。
その1ヶ月があったおかげで大学3年生も滑り込みで何とか中京大学FCに入れたが、このシーズンでも最初の大会直前に怪我をして、またリハビリ組での活動が始まる。
怪我が多く、メンタルが崩壊しそうになった時、もう一度自分の夢を再確認して、辛い日々を乗り越えた。
その日々を乗り越えられたから、復帰後からの公式戦は大体スタメンで出場でき、その中で得点を挙げる事もあった。
それなりの活躍とFW不足の為、中京大学FCの全国大会が終わった後の10月下旬にトップチームに選出された。
私はチャンスが巡ってきたと思い、やる気に満ち溢れ練習に参加したはいいものの、レベルの高さに圧倒され、自分の未熟さを痛感するだけで、ほぼ何もアピール出来ず、あっという間に2ヶ月が過ぎ、大学での3シーズン目が終了。
最後の2ヶ月間を味わい現実を知った私は、大学最後の4年生でトップチーム以外だったら夢を諦め、サッカーを辞めようと思っていた。
そして4年ラストシーズンのメンバー発表の日、私の名前はトップチームにあり、サッカーの神様が本当のラストチャンスをくれた。
このシーズンで夢を掴む為、武者震いをしながら始まった私のラスト1年は、サッカー人生の中で一番の挫折の日々を送る事になる。
ラストシーズンがスタートして、最初の3月の大会が始まるまでは、強化合宿や多くの他大学との練習試合を行ったが、私自身プレーの調子が良く、得点を挙げる試合が多かったのを覚えている。
迎えた3月の愛知学生選手権初戦、スタメンで出場して1得点をあげるという、ある程度の結果を出した。
2回戦目はベンチメンバーとして入ったが、試合に出場する事なく、チームは勝利した。
サッカー人生の中で一番の挫折の日々を送るのはここからだった。
その後の準決勝、決勝も私は試合に出場する事なく、チームは優勝。
リーグ戦でも、スタメン出場はなく後半最後の方に少し出場するかベンチでアップだけして出場出来ずに終わるかだった。
その途中に数週間の怪我で離脱した辛い記憶もあるが、何よりも辛かったのは夏の全国大会2回戦3回戦共に、4年生でありながらメンバー外だった事である。
けど、こうなっているのも結果を出せない自分に責任がある事は分かっていて、この辛い思いや苛つく思いをどこかにぶつける時間すら勿体なく、私は必死にもがき続けた。
練習中に攣る事を覚悟で、練習前に個人でフィットに行き、練習後にはチームフィットを行った。
この行動が正しいかは分からないが、調子は徐々に上がっていき、気が付けばインカレの全国大会まで、後1ヶ月の所だった。
そんな時に、私は紅白戦で左膝の内側靱帯を損傷。
絶望し、現実を受け止められなく、家に帰り寝る前に泣いた。
受傷後3日間ぐらいはさすがに引きずったが、私はインカレの全国大会に出場する事を諦めたくなかった。そこで出場して活躍したらプロチームのスカウトから声がかかるかもしれないと思ったからである。
1ヶ月前に怪我をしている選手が、復帰して、試合に出場して、試合で活躍して、プロチームからスカウトが来るなんて、確率にしたら1%もないかもしれないが、私は一心不乱にリハビリを取り組んだ。その結果、出発の2日前にギリギリで完全復帰をする事ができた。
しかし、出発日の27名には選出されず、
12月13日準々決勝筑波戦の応援席で、私のサッカー人生は終了した。
17年間のサッカー人生をこうして振り返り、私は「私にとってサッカーは、人生における11時台」というタイトルをつけた。
このタイトルは、ある芸能人の言葉を、自己流にして意味合いを少し変えたものである。
時計には長針と短針があり、1時間に1回は重なるように出来ていて、1時5分で重なり2時10で重なり、長針が追い抜いたと思ってもまた3時15分ぐらいで重なる。
毎時一回は重なるように出来ているが、11時台だけは短針が先に逃げてしまい2つの針は重ならない。
次に重なるのは、12時の「鐘が鳴る」時である。
つまり何が言いたいかというと、
「鐘がなる前には報われない時間があるということ」
私が抱き続けた「プロサッカー選手」という「夢」は17年間本気で続けても報われず、叶わなかった。
でも、誰にだって「人生における11時台」はあり、私にとってそれはサッカーだった。
次の新しい「夢」のために、挑戦を5年、10年続けても報われないかもしれない。
でも私は、いつか「鐘が鳴る」時を信じて新しいことに挑戦し続けます。
最後に
両親へ
17年間、何不自由なくサッカーを続けさせてくれてありがとう。
そしてプロサッカー選手としての姿を見せてあげられなくてごめん。
でもサッカーを通じて、かけがえのない出会いをしたり、喜怒哀楽の体験を出来たり、これからの人生で必ず役立つことを得られました。
それもこれも2人が支えてくれたおかげです。
本当にありがとう。
これから少しずつ恩返ししていきます。
長く拙い文章でしたが、読んでいただきありがとうございました。