#327〜「やりきった」〜4年〜今津美満
本日のブログは女子サッカー部所属
#16 今津美満(大阪学芸高校出身/4年)です。
みまりです!
引退しました。引退してしまいました。
引退ブログの日程が送られてきた時は焦りました。
なぜかというと、わたしはとにかく文章を作成するのが苦手だからです。いや、苦手意識が強いだけかもしれません。食わず嫌いでもあるので。
一生懸命綴らせていただきますので、お時間がある方は是非目を通していただけるとわたしが報われます。がんばりますね。
何をかこうか悩んでいましたが、振り返る機会もそうなかったので、サッカー人生を簡単に振り返りたいと思います。ダラダラ書いてしまうかもしれませんが、お許しください。
わたしがサッカーを始めたきっかけは3つ上の兄の影響でした。
兄が小学校のスポーツ少年団に所属しており、わたしは母と一緒によく試合を見に行っていました。そこで出会った兄のチームメイトの弟や妹たちとわちゃわちゃ遊んでいました。試合はろくに見てなかったと思います。個人的に楽しかった記憶があるのは、グランドの近くにある川に草に囲まれた道を通って遊びに行き、水切りしたことですかね。あれは小さかった私からしてみると、冒険をしているみたいで楽しかったです。
なぜサッカーをやろうと思ったかはあまり覚えていません。たぶん、弟や妹たちの影響で自然とって感じですかね。その時のこと覚えてたら教えておかーさーん。
なんやかんやで、わたしもサッカーをはじめました。
はじめは幼稚園のサッカーチームでした、サンマリンスクール?のような名前で、オレンジ?のバックを持っていた記憶が、、、、、それくらいしか覚えていませんが、同い年の女の子は私を含めて3人いたと思われます。全て曖昧です。
小学校に上がり、兄と一緒のスポーツ少年団に入りました。ここでは女1人。ある大会のパンフレットで「紅一点。花を咲かせましょうグラウンドに」という選手紹介文をコーチに付けてもらった記憶があります。そのおかげで「紅一点」という単語がわたしの数少ない知識に追加されました。ありがとうコーチ。
あの頃は、ただひたすら!とにかく!男の子負けないようにサッカーをやっていた記憶があります。
それともうひとつ記憶に残っていることがあります。母がバレーボールをやっていたこともあり、2人でバレーをよくしていました。その時たぶんバレーもやりたがったんでしょう。母に「バレーかサッカーかどちらかにして」と言われ、サッカーを選んだ記憶があります。今もですがわたしは優柔不断です。そして辞める勇気がなかったと思われます。この時バレーを選んでいたら、身長もう少し伸びてたかなとも考えたこともあったなあ。
中学校にあがり、初めて女の子のチームに入りました。
岐阜から名古屋まで電車で通いました。学校が終わって、急いでご飯を食べて駅に送ってもらい、グランドに向かうという日々を過ごしていました。母は仕事を途中で抜けて、わたしのためにご飯を用意してくれて、駅まで送ってくれました。
また、練習が21時に終わり、駅まで普通に歩けば20分のところを、みんなでコンビニに寄ったり、ダラダラ話しながら帰っていたため30分くらいかかりました。そのため、岐阜の最寄りに着くのは22時半過ぎ。帰りも家族が駅まで迎えにきてくれていました。きっと眠かったと思います。今では21時過ぎには布団に入ってしまうほど早寝家族なので。両親には本当に感謝しきれないです。
そんな中学時代、1番記憶に残っていることは私が中学2年生の頃の、U-18の全国大会です。学年で唯一年上ばかりのチームに帯同させてもらいましたが、1人だけベンチ外でした。Jグリーンのネットの外で試合見ながら泣いてたなー。なぜ覚えているのか、私のそれまでのサッカー人生は正直挫折も何もなく、試合に出れて当たり前の環境だったからだと思います。恵まれていました。あの時の衝撃と悔しさはきっと今後も忘れないと思います。
ですが、たくさん試合に出させていただき、さまざまの経験をした中学時代。初めての全国大会、たくさんの出会い。私の今を作ってくれている大切な時間でした。
そして高校に進学する際、私は岐阜を出る決断をしました。
高校で自分がどれだけできるのか、正直1ミリも想像できていませんでした。結果から言うと、特に活躍はできなかったです。ゼロに近いです。ですが、わたしのサッカー人生で忘れられない、なくてはならない3年間になりました。
寮といっても、同期は私含めて3人、各学年5人以内という小規模でした。だからこそ、寮のみんなと家族より濃い時間を過ごせました。誕生日はみんなで祝いました。週末はパーティーもしました。テスト勉強はみんなに鼓舞してもらいました。1人部屋だけど5人くらいで一緒に寝ました。散歩にも行きました。スーパーにも行きました。門限ギリギリで走りました。ずっと誰かといました。
しんどい3年間をみんなに支えられ、本当に貴重な3年間を過ごさせてもらいました。きっと今後経験できないような眩しすぎる青春でした。
高校はとにかく濃い3年間で、毎日必死に上手い選手に追いつけるように、負けないように練習していました。悔しい思い出がほとんどで、当時はしんどすぎましたが今考えれば本当にいい思い出です。
つい最近、当時書いていたサッカーノートを見つけました。映像を見ながら、練習を思い出しながら書いていたことを思い出しました。監督からの赤ボールペンで書かれた言葉を必死に読んでたことも思い出しました。監督は私たち選手に常に全力を注いでくださっていました。サッカーだけでなく、私生活も大切だということを監督から教えていただきました。監督の元でサッカーできたこと、宝物です。
何度も言いますが、本当に辛く、きつい3年間でしたが、学芸を選んでよかったなと思います。本当に選手、監督、スタッフに恵まれすぎていたチームでした。
だけどもうあんな辛い思いはしたくないです^ ^
そして大学生。わたしは最初高校まででサッカーを辞めるつもりでした。とはいってもやりたいことなんてまったくなくて、大学には進学したいなという軽い気持ちでした。母には「サッカーやらないならお金出さないよ」と言われました。オーマイガーこりゃ大変。サッカーを続けることにしました。
それともう1つ母から言われました。
「不完全燃焼じゃない?」
たしかに。グサっときました。
両親はわたしを県外の高校に進学させてくれたのにも関わらず、公式戦の出場は僅か。活躍する姿を見せられませんでした。もしかしたらわたしより悔しい気持ちがあったのかもしれません。
そんな私が中京を選んだ理由は、家から近い、仲が良い先輩がいる、ここでなら活躍できそうの3つでした。
大学生といえば、とにかく自由!そんなイメージのままワクワクした気持ちで大学に進学しました。
ですが1、2年生の頃は試合に負けることが多く、どんなモチベーションでサッカーをやればいいのか悩みました。試合に出させていただいていても、いまいちサッカーが楽しく思えていなかったです。他のの誘惑にも気がいってしまい、なかなか集中できない時期も多かった記憶があります。そんな中でも私が頑張ってこれたのは、中京の仲間の存在が大きかったです。改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
どこを切り取っても、私のサッカー人生は本当に人に恵まれたなと振り返りながら感じます。
そして大学で1番濃い2年間が始まりました。
3年生から、引退にかけてわたしのサッカー人生がまた少しだけ苦しくなりはじめました。試合に絡めないことが増えたからです。
うーーーーーーーんなんでだろうなーーーーーーと毎晩1人で考えていたと思います。しんどかったな〜〜〜。
もちろん何かが足りないというのは、嫌ほど感じたし、自分でもなんとなくわかっていました。わかってはいるのにできないのが苦しかったです。といってもなんの行動に移せなかった自分に尚更腹が立ちました。
しんどくて腐る寸前にも、ただひとつ、私が意識して継続したことがあります。それは練習で手を抜かないことです。上の学年になるにつれて、責任感は自然と芽生えました。とにかく練習には4年間、いや高校の頃から7年間は全力で練習に取り組んできたつもりです。
そんな中で、なんでわたしじゃないのなんて思うことももちろんありました。本当は自分のプレーに自信がないし、実力がないのもわかっているけど、心の中では強気でいないと心が死んじゃうと思ったからです。思うことは自由だと理由をつけて、ひたすら心の中でネガティブな感情をぶつけていました。自分にベクトルを向けられない時もありました。
心が死んじゃうとか激重言葉使ってて自分でもびっくりです。
「人生楽しそうだね」とよく言われていたので、ここまで考え込んでるとみんなは思っていないでしょう。
思ってたのは事実です。1人になると誰にも頼らず、考え込んでしまうことが多かったです。でも、個人的にサッカー以外にやりたいことが増え始めた時期に、ここまでサッカーに打ち込めたのはみんなのおかげです。1人で考え込んでも、みんなと会って話したり、ふざけ合ったりするだけで忘れられました。
ひたすら腐らず頑張り続けて最後インカレに出場できたことは、大学生活の中で1番の思い出です。
改めて、中京のみんなに感謝です。
最後に素敵な思い出をありがとう!
今現在も、みんなそれぞれしんどい気持ちを乗り越えて日々頑張っていると思います。もちろん報われないことも、不公平なこともあります。気に食わないことがほとんど、そんな世界だと思います。そんな時は、人のことなんてほっといて、自分のペースで頑張ってほしいなと思います。まずは自分を大切に、自分にベクトル向けて考えを整理して、次の日から頑張れば良い!
もし感情がぐちゃぐちゃになって何もかもが嫌になったら、誰を頼ってください!意外と人間って頼られると嬉しかったりすると思います。1人で抱え込まないで!
4送会でも伝えましたが、「死ぬこと以外かすり傷」です!しんどいと思うけど、人間そう簡単に死なないから大丈夫!!
ここまで振り返ってみて、なかなかこんな機会がないのでいろんな思い出が蘇ってきて、エモーーーってなりました。今思えば全部思い出。
わたしの大好きなJO1の曲の歌詞で「思い出になるいつか今日も」と言う歌詞があります。本当にその通り!振り返った時にそう思えるように、たくさん苦しんで、戦ってきてよかったなと今は思えます。そう思えたことが、引退した今嬉しいことのひとつです。
自分のことをただひたすら書きました。私は今までブログであまり自分のことを奥深くまで話したことはなかったし、ネガティブな感情もあまり出してきませんでした。それは単純に恥ずかしかったからです。弱い自分を見せたくなかったからです。また、文面だけでもポジティブに居続けることで、自分へのエールにもなっていたと思います。まだ頑張れるよって。
長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。
ここまでひたすら自分のサッカー人生を振り返りましたが、私が引退して改めて感じたことは本当に周りの人に恵まれたということです。みんながいたから私は頑張り続けられました。今なかなか会えなくなってしまった人も沢山いるけど、またどこがで会えたら嬉しいです。
みんなは私の今までの人生の最大の財産です!!!!大好き!!!!!
そして幼稚園から大学までの間、私に関わってくださった監督、コーチ、スタッフの皆様、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
そしてお父さん、お母さん、兄ちゃん、ばあちゃん。遠くからずっと見守ってくれて、支えてくれてありがとう。
普段あまり自分のこと話さないから沢山の心配も、負担もかけたと思うけど私は楽しめました!やりきりました。
少しずつみんなに恩返ししていきますからお待ちを。
これからもよろしくお願いします。
最後にいつも中京大学を応援してくださっている皆様。
これからも私の、可愛い可愛い目に入れても多分痛くない、そんな後輩たちの応援を引き続きよろしくお願いいたします!
どんどん強くなっていく中京楽しみだな〜!
みんなのこと心の底から応援してます。