Page15 「ありのまま」 林宏夢

私は2年の4月に入部し、そこから3年間にわたって中京大学男子サッカー部の学生トレーナーとして活動した。 このブログでは3年間の中で印象に残っている事などを自由に書こうと思う。
2年の4月から学生トレーナーとして入部した私は、当時3年の学生トレーナーである後藤亮也先輩の指導の下、CFCでの活動を始めた。 勢いで入ったものの、1年次にはトレーナーとしての勉強を全くしておらず、脛骨と腓骨の区別もつかない状態であった。 亮也くんに「もう2年なんだから、解剖とかはある程度分かるよね」と言われ、絶望したのを今でも覚えている。そして、トレーナー業務で最初に言われた言葉が、「トレーナーは信頼が全て」であった。
その意味が当時の私には理解できなかった。リハビリが全てだと考えていた。その実力さえあれば、トレーナーとして成り立つと本気で思っていた。しかし、その実力だけでは足りない何かがあるのだと、徐々に気づかされることになる。
火・金の朝は地獄のようであった。平日の午後練習に加えて、火・金曜日の朝は7時〜9時、フィットネスプラザで筋トレ。入部当初の私にはCFCの練習は非常にきつかった。朝の選手たちは名将による2時間・全メニュー下半身という、シーズン中でもお構いなしのトレーニングを受けていたが、実際には監督の視線を意識しながら、どれだけサボれるかを競っているような雰囲気であった。「結局この2時間は誰のためのどんな時間なのか?」という疑問を抱えながら1限に向かっていた。
さらにその中で、愚直にメニューをこなしていた選手がケガで離脱し、スタメンの多くは筋トレをサボっているという状況も目にした。トレーニングの知識もほとんどない当時の私は、どちらが正しいのか判断できなかった。今考えても難しい。もしかするとサボっていた選手は自分のコンディションを考えて「このメニューは合わない」と判断していたのかもしれないし、ケガをした選手はトレーニングに関して無知で、ただやっているだけになっていたのかもしれない。
だが私は、みんながサボって携帯を見ている間にただひたむきに筋トレを続ける人が報われるところを見たかった。そして亮也くんは、その筋トレをしている選手にアドバイスをしてケアを行っていた。
私から見た当時の亮也くんは、まさに「選手ファースト」であった。ケアのために遅い時間に帰るのは当たり前。試合準備を何度も何度も確認する。試合中は常に全体に気を配り、その傍らで一人一人の服をハンガーにかけ、誰のものか分かりやすいよう配慮する。どんな小さなことにも妥協せず取り組むその姿勢は、私とは真反対で本当にかっこよく、当時の私には深く刺さった。ピッチで闘っている選手と同じように、常に一緒に闘っているようだった。他のことにも一切手を抜かず、全力で取り組む姿に圧倒されながらも、なんとかしがみついた。身を粉にして全力でサポートする姿を最も近くで見て、トレーナーという仕事がどんなものか、理解を深めることができた。
そんな風に、「トレーナーとは何か」を、一人の学生トレーナーを通して嫌というほど痛感した最初の1年は、私にとって忘れられないものとなった。
その次のシーズンからU22Bに配属された私は、不安を感じていた。そもそもスタッフも含め、話したことがある人がいなかった。そしてこの部活に入った当初から疑問があった。6軍の選手たちのメンタリティはどのようなものなのか。サッカー部の選手である以上、部費やウェア代、遠征代など、決して少なくない費用がかかる。それに見合うものだろうか。
しかも、チームの序列として一番下であるがゆえに、週6日の活動の中でグラウンドが使えない日があったり、他チームの予定により急遽予定変更されたり、サッカーを思うようにできないことが多々あった。それならば、バイトをして遊び、たまにフットサルをする方が楽しいのではないかと、私はこんな舐めたことを何度も思っていた。
しかし私の予想は甘かった。みんなあまりにもサッカーに人生を捧げていた。サッカー部にいるほとんどの者が小学校・幼稚園からサッカーをしており、恐らく部員の半分以上は強豪高校の出身。彼らにとって、中京大学でのサッカーはスポーツ人生の延長線上にあり、最後の舞台である。トップチームを除く選手のほとんどは、「大学サッカーで終える」という思いでグラウンドに立っていた。
そんな選手たちの最後のサッカーに少しでも関われたことは私にとって大きな誇りであり、感謝であった。 ありがとうございました。
U22Bの活動が始まった当初から、1年前のCFCでの光景とあまり変わっていないことに気付いた。正直、私が予想していた5倍は真剣にサッカーと向き合っていた。永富総監督という存在のおかげなのか、上のチームから事件を起こしてきた訳あり4年生のおかげなのか、練習の雰囲気は活気に満ちていた。週1回のフィットでの筋トレでは、熱心に質問してくれる人が多く、私自身も居心地が良かった。
中でも印象的だったのは、高校までハンドボールをしていて大学からサッカーを始めたという当時4年の永田航先輩である。サッカー観戦が好きで、プレーに興味を持ったと言っていた気がする。運動神経が抜群というわけではなく、むしろチームで1、2を争う運動神経の悪さだった。当然4年間で最後の試合を除いて一度もメンバー入りはできなかったが、それでも食らいついていた。4年という時間の大半を、やったことのない競技に投じることは、私には想像もできない根性が必要であっただろう。当然私なら一週間で退部届を提出だ。引退試合、途中出場で永田くんがグラウンドに立ったとき、観客として見ていた部員のほとんどが永田航の名前を叫んでいた。そして、ここまでやり続けたことに対して、部員たちから大きなリスペクトが送られていた。私はその瞬間、「中京大学サッカー部で一番かっこいい人」を見た。
4年になり、CUへの配属が決まった。CUのメンバーは、とにかく個性的であり、なにより自我が強かった。学生スタッフに対して良くも悪くも気遣いはなかった。だが私にはむしろそれがありがたかった。私も負けないくらいに気を遣わなかった。
CUのシーズンが始まった。これまでの私は、正直言ってチームの勝ち負けにさほど興味がなかった。おそらくトレーナーとして、チームの勝利のために身を捧げる勇気も覚悟もなかったからだ。 それが今年になって、少しだけ変化していったと思う。かなり遅い。
CU全社出場が決まったときや、安部ちゃんがオーバーヘッドでゴールを決めた時、すごく興奮した。胸に歓喜が沸き起こった。 テーピングやアップなど選手たちから必要とされているとき、一緒に闘っている気持ちだった。 リハビリ選手と復帰時期やトレーニングについて話している時、選手の熱が伝わってくる。その熱が伝わってきた時、「この選手のために。」と本気で願い、自然と行動に移すことができた。
すべては勝利のために。 選手と同じようにスタッフも闘っている。 森本さんは選手1人1人に丁寧な指導をして闘っている。 愛美ちゃんは、遠征の手配やボール拾いをして闘っている。相佐GKコーチは試合中の選手に届くように大きな声で指示を出して闘っている。勝利という同じ目標に向かってひたむきに頑張る姿は、すごく美しい。これからの中京大学サッカー部のご健勝をお祈りいたします。
最後にこれからの生き方について。
突然だが、あなたが生まれた時、何か目的をもって生まれたか?
答えはノーだろう。「自分はなにか使命があって生まれてきた」とは思わない。
私は自分の人生を、長く、果てしない暇つぶしだととらえている。
ではこの長い「人生」をどう歩むべきなのか。
私は「林宏夢の人生」という物語を観た時に、「最高におもしろい」と思えるように歩みたいと思っている。
そしてここで重要なことは、「funny」ではなく、「interesting」であるということだ。
「interesting」な人生とは何か?
たとえば、大谷選手のような名選手の成功譚のように王道を歩む人生かもしれない。
だが一方で、裏方の苦悩、葛藤、挫折、再起という起伏に満ちた人生もある。
私はどちらもとてもおもしろいと思う。
みなさんにも問う。
二人の人生をフィクションとしてみるとしたらどちらを観たいか。
きっと迷われる方もいるだろうと思う。
確かに大谷選手のような聖人君主は尊敬に値する。
あんな人生を送ると、どんな景色が見えるのか非常に気になる。
だが、私には人間味のあふれる物語も魅力的に感じてならない。
どちらの人生を歩みたいか。あなた自身は、どんな物語に魅力を感じるのか。
私は自分自身に嘘をつかず、生きたい。自然体で、真摯に。
この3年間、学生トレーナーという役割を通して、たくさんの学びを得た。
尊敬できる人、おもしろい人に出会い、自分に足りないものに気づいた。
私の物語に「中京大学サッカー部学生トレーナーとしての3年間」は必要であった。
この3年間が、今後のどのような展開を生み出すのか。
それを楽しみにこれからも生きていきたい。
また機会があれば会いましょう。お元気で。
