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Page16 「終わり良ければ総て良し」 田中裕康

ココロノオト~seazon4~


 私の引退ブログをご覧いただき、ありがとうございます。U22Aに所属しておりました。GKの「DANI」こと、田中裕康と申します。何故「DANI」と呼ばれるようになったかについては、書くと長くなってしまうため割愛させていただきます。この度、引退ブログを書く機会をいただき、この場をお借りして自身のサッカー人生を振り返っていければと思います。非常に長い文章ではありますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。

 

サッカーを始めたきっかけは覚えていない。ただ、GKを始めたきっかけは鮮明に覚えている。小学生の頃に所属していたチームは、毎試合大量失点で負けてしまう様な弱小チームで、GKをしていた私は、ハーフタイムに悔しくて泣いてしまうこともあった。それでも、シュートを止めた時の保護者の方々から浴びる黄色い歓声が嬉しくて、いつの間にかGKに夢中になっていた。私の中で「シュートを止めた時の喜び」が、サッカーを続けていく上での原動力になっていった。小学生の頃は、身長だけで選出された「トレセン」を除けば、楽しかった思い出ばかりで、地元の仲間達とボール蹴った日々は今でも良い思い出だ。

 中学生になると、市外のクラブチームに入った。小学生の頃とは違い、勝つためのサッカーと向き合っていくことになる。シュートを止めることしか出来なかった私は苦労した。キックを遠くに飛ばすところから始まり、GKの細かい技術や戦術も1から学んだ。中々成長せずチームに迷惑をかけ、指導者からも怒られてばかりであったが、チームメイトや保護者の方々に支えられ、苦しいことも乗り越えることができた。

 高校は東福岡高校に進学した。岐阜県出身の私は、東福岡高校のことをよく知らないまま入学し、後悔することになる。男子校での慣れない生活。サッカー部では全く通用しない。毎日落ち込みながら寮に帰っていた。3年間を通して様々なカテゴリーを経験し、出場した試合の中で活躍したといえる試合は余裕で片手に収まる程度。ほとんどの試合が自分のミスから崩れた試合だった。不甲斐ない自分に責任を感じ、次第に「自分が試合に出ない方がチームの為になる」や、TOPチームにいた頃は「自分なんかがトップチームにいていいのか」と思ったこともあった。しかし、どん底を味わいながらもプレミアリーグの試合に出場することが出来たり、全国高校サッカー選手権大会に帯同することが出来た。苦しいことばかりだったが東福岡高校サッカー部の一員として過ごした3年間を今でも誇りに思っている。

 

 高校3年生の夏、初めて中京大学サッカー部の練習に参加したとき、TOPチームのGKには後に偉大な先輩となる、畝良くんと悠くんがいた。TOPチームのGKが1年生しかいないことに衝撃を受けた。大学の練習についていけるか不安で緊張している中、優しく声をかけてくれたり、励ましてくれたことを今でも鮮明に覚えている。また、中京大学には高校の先輩である知花康士朗くん、健太郎くん、井原直人くんがいた。練習参加で偉大な先輩方と出会ったことが中京大学に進学する決め手となった。また、将来教員なりたいと考えていたことも中京大学に進学した理由の1つであった。

 大学1年生【U22B】

私は入学式後からサッカー部の練習に合流した。最初はU20だったが、3日ほどでU22Bに落ちた。U20のレベルについていけないという感覚は3日間の中ではなかったが、静岡学園のGKと清水エスパルスのGKがいたため、落ちたことに対して特に異論はなかった。その後、U22Bでの練習と同時にU22Aとの「2部練」が始まった。2部練は大学で初めて経験したことで、ハードだった。4年間を通して、TOPチーム以外のカテゴリーには参加したが、特にU20・CFC・CUはレベルが高かった。練習はもちろんのこと、練習試合の対戦相手のレベルも高く、ミスが許されないGKとしてはプレッシャーが大きかった。哲さんや奏翔から2部練のラインが届いた時には、正直憂鬱だった。しかし、2部練はレベルの高い選手達と高い強度の中でプレーすることが出来、私が成長する上で必要だったと思う。また、普段あまり関わることのない他カテゴリーの選手やスタッフとコミュニケーションを取ることが出来たことも2部練のメリットだと感じる。U22Bでのシーズンは4年間を通じて1番充実していたと言っても過言ではない。先輩方が歓迎してくれて、優しくてユーモアのある同期にも恵まれた。それまではミスを恐れていた私も伸び伸びとプレーすることが出来、開幕戦から多くの試合に出場することが出来た。シーズンを通して、「自分がU22Bの守護神だ」と思っていたし、天狗になっていた部分もあったかもしれない。しかし、試合に出られる喜びと責任を感じながら、たとえ攻められっぱなしでも失点しないGKになるために全力でトレーニングに励んだ。最終節の先輩方の引退試合にも出場することが出来、最後まで順風満帆なシーズンだった。

 大学2年生【U22A→CU】

2年生では、1つカテゴリーが上がり、U22Aに所属した。しかし、約1ヶ月が経ち、リーグが開幕する直前にCUのGK(岡勇太)が怪我をしてしまい、急遽CUに「移動」することになった。CUには、カテゴリーが「上がった」という感覚よりも、岡の「代わり」というのが正直な感覚だった。ほとんどの選手がU20や社会人、TOPを経験している選手で、U22B、U22Aでプレーしていた私は、CUの一員としてやっていけるか、とても不安だった。結論から言うと、実力は全く通用しなかった。ゴールを守ることに必死で、ビルドアップでは全部自分のところで詰まる感じがして、チームに迷惑をかける日々。「陣くん」というスーパーな先輩がいたこともあり、特にミニゲームで陣くんと私が出ている時は、私の実力不足を痛感させられ、私に向けられる味方からの視線から逃げる毎日だった。次第に自信を無くし、練習に行きたくないと思うようになった。大学1年生で高校までとは違い、自信がついたものの、CUでまた高校までの自分に後戻りした感覚だった。1年間を通して中々調子を取り戻すことは出来ず、公式戦の出場もなく、目立った個人成績は残すことは出来なかったが、陣くんや毎日ストイックに努力を続ける先輩の背中をみながらプレー出来たこと、「エリート」という言葉が似合う様なキラキラした同期や先輩方とプレーすることが出来て良かったと思っている。龍くんや越さん、光くんやオグくんなど、シュートが上手い先輩方のシュート練習に入り、セービングを磨いたことは、今の自分に活きていると思う。

 大学3年生【U22A】

U22Aで過ごした大学3年生のシーズンは4年間で1番最悪だった。サッカーに対する気持ちが緩んだ、揺らいだシーズンだった。「今年こそ試合に出てやる」と思っていた矢先、スーパー1年生の片渕が入ってきて、一瞬にしてスタメンの座を奪われた。その時点で、「今シーズンは片渕からスタメンの座を奪えない」と自分の中で決めつけてしまった。大学ラストイヤーの大くんがいたこともあり、「俺は3番手のGKだから2人が試合に出れば良い」と思ってしまった。練習には身が入らず、なんとなく部活に行く日々。遅刻も増えた。当然公式戦の出場もなく、今でも3年時、1年間部費を払ってくれた親には申し訳なく思っている。東福岡の後輩である大晃はIリーグの全国大会に出場したり、U20でキャプテンを務め、来紀は1年生の頃からU20で試合に出てゴールを決めている中で、何もないシーズンを過ごした自分に不甲斐なさを感じた。入学時は知花兄弟や直人くんといったお手本となる先輩方がいた中で、自分と比べると恥ずかしくて仕方がなかった。そんな状況でも、どんな時でも明るく、ひたむきな姿勢でU22AのGKチームを引っ張ってくれた大くんには1年間を通して救われた。

 大学4年生【U22A】

気づけば4年生になっていて、同期以外は全員後輩になっていて、これまで以上に「先輩」として見られる自覚を持ちながら最後のシーズンがスタートした。4年生として後輩とどの様に関わっていけば良いか考えた。自分は怖いキャラでもないし、リーダーシップもない。サッカーが上手い訳でもない。私が出した答えは、「後輩にとって楽な先輩」になることだった。4年生だからといって偉そうにはせず、後輩とは出来る限りフラットな関係でいるように意識した。一緒にプレーしている後輩が先輩の顔色をうかがうことなく、ミスを恐れずに伸び伸びとプレー出来る様に、周りの雰囲気が悪くても、自分だけは明るく振舞った。GK練習では、3年生までは先輩に引っ張ってもらっていたが、4年生になると練習のモチベーターになることを意識した。リーグ戦が始まると、メンバーには入るが試合には出られない時期が続いた。「Iリーグ全国大会出場」というチーム目標を掲げ、1試合1試合の大切さ、重みを感じるにつれて公式戦に出たいという気持ちはなくなっていった。練習は全力でやるけれど、週末の試合には出たくないという心情だった。「岡の方が自信もあるし、自分より岡が出た方が良い」と思うようになり、岡とスタメン争いをするメンタリティーはなく、毎試合ベンチを温めていた。転機となったのは第7節の愛知学院大学との試合だった。1年生以来のスタメン出場となった試合であったが結果は0-4の大敗に終わった。自分でもまた自信を無くすのかと思ったが、今回は違った。この試合をきっかけに、「スタメン出場をした試合で勝ちたい」と思うようになったのだ。試合数も残りわずかとなり、次は両親に試合に出場して、勝利しているところを見せたいと思った。それを機に日頃の練習では岡よりも良いパフォーマンスを出せる様に、より一層頑張った。次にチャンスが巡ってきたのは第11節の愛知東邦大学との試合だ。2失点はしたものの、この試合に勝利することが出来、自分の中で自信になった。その後は徐々にスタメンの座を掴めるようになり、調子を上げていくことが出来たと思う。そして迎えたU22Bとのダービー戦。1年生の時に所属したチームと、共に切磋琢磨した仲間と引退試合で対戦することが出来て嬉しかった。また、沢山の方が観に来てくださり、最高の応援に包まれながらプレーすることが出来て幸せだった。高校までは沢山の観衆の中でプレーすることがあまり好きではなかった。しかし、最後の試合では、緊迫した試合を楽しむことが出来ている自分に成長を感じることが出来た。沢山の方々のおかげでサッカー人生最後の公式戦に相応しい試合をすることが出来た。

 

 これまでのサッカー人生を振り返ると「エリート」に憧れ続けたサッカー人生だったと思う。代表や選抜に選ばれる選手。後輩の憧れの的となる選手。チームの主力として色々な人に注目される選手。あまり練習に来なくても、普段の練習で全力を出していなくても、努力をしなくても、試合に勝つためには必要とされる選手。そんな選手を想像するとかっこいいなと思ってしまう。しかし、今まで何度も挫折をして、「サッカーを辞めたい」「サッカーをやりたくない」と思った落ちこぼれの私が、ここまでサッカーを続けてこられたのは、常にサッカーと向き合い、壁にぶつかっても諦めずに努力し続ける仲間の姿があったからだ。中京大学の選手だけでなく、それぞれのチームでサッカーを続ける仲間の姿は、かっこよかったし、刺激になった。その中にはプロの道に進む選手もいる。これからは応援される立場から、応援する立場となって、サッカーと関わっていきたい。

 

 

 

お父さんへ

これまで1番のサポーターとして私を支え、応援してくれた家族には感謝しています。その中でも、サッカーを続けるにあたって1番お世話になった父に感謝を伝えたいです。小学生、中学生の頃の送迎担当は父でした。助手席で私が爆睡している時も、悔し涙を流している時でも、上機嫌の時でも、長い距離を文句も言わずに運転してくれました。ラジオが流れる車内での父との何気ない会話は良い思い出になっています。毎回コンビニや飲食店で捕食を食べさせてくれてありがとう。サッカーのたびに砂だらけになって、車のシートを汚したり、汚れた服の洗濯を任せてしまっていたことは今でも反省しています。

姉や妹に比べて、金銭面、体力面において1番迷惑をかけた私ですが、1度も文句や弱音を吐かず、支え続けてくれた父、母には感謝してもしきれません。だからこそ、もっと試合に呼びたかったけど、実力不足や恥ずかしさもあり、試合に出場している所を多く見せることが出来なくてごめんなさい。この先、恩を返しきれるか分からないけど、自分なりに頑張っていくので、これからもよろしくお願いします。

哲さんへ

4年間お世話になりました。哲さんから学んだことは、「常に試合を想定して練習することの大切さ」です。哲さんからは練習中、よく「集中して」や「意識して」と指摘を受けました。その度に、「集中はしているつもりだけどな」と思っていました。でも、4年生になると、その意味が分かったような気がしました。それまで、私はGK練習のメニューをただ黙々とこなしているだけでした。でも、大切なことは練習のための練習ではなく、試合のシチュエーションをイメージして練習をすることでした。常に試合中の状況をイメージしながら練習したことが、4年生の後期に調子を上げることが出来た要因だと思います。哲さんは私達4年生が入学した年にGKコーチに就任されました。U22Bで初めて大学の公式戦に出場した時、ベンチには哲さんがいてくれました。あの時感じた安心感は今でも忘れません。1年時の誕生日にはプレゼントを頂き、嬉しかったです。3年生以降は遅刻が増え、沢山呆れさせてしまったこと、今でも申し訳なく思っています。4年生ではゴーリーウォーズで対戦することが出来て嬉しかったです。4年間、ほとんど毎日グラウンドで過ごした哲さんと会えなくなるのは寂しいですが、そんな時は哲さんがFC刈谷時代のたこ焼きを焼く動画を見て元気を貰おうと思います。4年間ありがとうございました。

 

相佐奏翔へ

私は、奏翔が中京大学に来て1番最初にGK練習をした選手です。奏翔とマンツーマンでGK練習をする中で、頼もしいコーチが来てくれたなと思った記憶があります。ピッチでの奏翔は年下とは思えないほど頼りがいがあって、私たち4年生に対しても熱い気持ちを持って指導してくれました。学生コーチとはいえ、年上の選手に厳しいことを言えることは当たり前ではない中、ぶれずにコーチとして向き合ってくれてありがとう。奏翔の指導のおかげで、私と岡勇太は出来の悪いGKだったけど、最後までU22Aのゴールを守り切ることが出来ました。試合の時に奏翔がいないと、岡とよく「今日、奏翔いないね」と話すほど奏翔は私と岡にとって欠かせない存在でした。最後のU22Bとのダービー戦、パントキックで深津に繋いだ時に「ダニはたまに魅せてくるんだよな!」という声が聞こえてきた時は嬉しかったです。哲さんにとっても、後輩たちにとっても、奏翔は必要不可欠な存在だと思います。これからも奏翔らしく頑張ってください。

 

健太へ

最終節、私と岡の都合で振り回してしまったこと、申し訳なく思っています。結局2人とも試合に出られた時、複雑な思いもあったとは思うけれど、笑顔で送り出してくれてありがとう。健太は技術も、人柄も素晴らしい選手です。同じ福岡県のユースチーム出身としてこれからも応援しています。

 

GKファミリーへ

個性の強い1年生。名門揃いの2年生。みんな静かな3年生。そして、

真面目そうだけど、恐らく物凄く変人な東下茅広。

見た目通り穏やかで優しいのに、青森山田を完封するほど優秀なGK中島あつき。

高校の頃から有名で、後輩からも慕われていた、魅力的なスタイルの大石崇太。

お手本のような変人。フィジカルお化け。GK練習で哲さんを困らせた岡勇太。

1年生の頃から共に励まし合って、最後は同じピッチに立てた蟹江裕也。

みんなで高め合ってきたからこそ、私は4年間頑張ることができました。ありがとう。

 

後輩たちへ

私が伝えたいことは1つです。寝坊や遅刻には気を付けましょう。どんなにサッカーが上手い選手でも、やっと評価されて、試合に絡めるようになった選手でも、寝坊や遅刻によってそれまで築いてきたものが一瞬で砕け散ります。

1. 朝練の前日は早く寝て、アラームをかけ忘れないこと。

2. 選手同士で起床確認をして、1人も取り残さないこと。

3. 「あと5分だけ寝よう」は危険です。

4. 夕方以降の練習でも油断しない様に。

上記に気を付けてこれからも頑張ってください。

 

サッカー部以外のみんなへ

一緒に授業を受けたり、食事に行ったり、温泉に行ったり、他愛のない話をする時間があったからこそ、部活が苦しい時期も乗り越えることが出来ました。ありがとう。残り少ない大学生活も楽しんでいきましょう。

 

ここには書ききれませんがサッカーを通じて沢山の人と出会い、沢山の経験をしました。

これまで一緒にサッカーをしてくれた先輩方、同期、後輩たち、対戦相手、親身になって指導してくださった監督やコーチ、支えてくれたトレーナーやマネージャー、審判をはじめとする運営の方々、応援してくれた家族、親戚、友人や保護者の方々、学校の先生方   ・・・  

本当にありがとうございました。

 

およそワード6枚分の長く、拙い文章ではありましたが、ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

田中裕康