#482〜「DFとしての4年間」〜4年〜大野夏実
本日のブログは女子サッカー部所属
#4 大野夏実(藤枝順心高校出身/4年)です。
4番 大野夏実です。
引退です。17年間のサッカーが終わりました。
ぱっと振り返ってみると運の良いサッカー人生であったなと思います。あまり、自分自身のサッカー人生を事細かく話したことはないので、ここが最初で最後の場とさせていただきます。長いです。正直。
小学生は外に出るのが嫌いなサッカー少女。
新しい環境、友達作りが苦手で、トレセンが1番の苦痛の6年間。
中学生
ピンクのユニを着る10番に憧れ、藤枝順心JYに入団。すぐに試合に絡めると思っていましたが、そこまで甘い訳もなく、1年間はベンチで過ごしました。そこから私にしては珍しく努力を重ねました。試合に出続けるためにセンターバックに転身し、学び、練習し、改善する。そんな毎日だったと思います。そして、3年は藤枝順心の10番として全国大会に出場することができました。良い指導者にも恵まれ、ヤンチャ?(問題児)であった私も人として少し成長することができました。試合前にいくみに馬乗りになって怒られたり、走りの紙を隠してすぐバレたり、色々しれかしましたが、とても充実した3年間でした。しかし、この流れで順風満帆に行かないのがサッカー。
高校生
藤枝順心高校。思い出したくない過去です。サッカーに全てを捧げた3年間でした。2度の大怪我。サッカーをやれたのは2年生の1年間のみ。サッカーをやれている時もほぼC.Dチームです。2年の夏には、Dチームのベンチ外。63人の中の63番目です。そんな中でも親は来ます。自信のないプレーをして、帰っても親は何もいいません。何も言うことがないくらいの情けないプレーだったと思います。夏を越し、このままではいけないと、とにかく我武者羅にプレーをしていると1個ずつカテゴリーが上がり、気づいたら、12月にはスタメン組にいました。漫画でもあまりない展開。展開が早すぎる。自分でも訳がわかりませんでしたが、そんなことを言っている間に選手権が始まり、試合にも出させてもらい、日本一を経験させていただきました。3年生。夏に体調を崩し、1ヶ月以上サッカーをすることができませんでした。少しずつ体調を戻し復帰するも、次は足が悲鳴をあげ、また手術。これで私の高校サッカーが終わりました。日本一走りました。この文章だけだと呆気ない3年間に見えてしまいますが、私は確実に人生を全てかけてサッカーをしました。これは自信があります。皆さんは自分を追い込みすぎないように、、体か心かどちらが先か分かりませんが、壊れます。確実に。しっかり休む時は休みましょう。追い込むのは筋トレだけにしてください。
私は大学を決める際、東海に完全に絞りました。そして、私は生粋の漫画好きです。その時はジャイアントキリングにハマり、下剋上したいと考えた結果、中京に決まりました。このことは親に言っていません。中京が色々なチームに負け越しているのは知っていたので、これでインカレ行けたらもうこの4年間で漫画描けるなと確信しました。
大学生
期待を胸に入学しましたが、今ではありえないほどの練習強度でした。いい意味で緊張感がなく、和気あいあいとサッカーをしました。高校生に7点決められて負けたり色々悔しいことはありましたが、高校で忘れかけていたサッカーを楽しむという本質を再び感じさせてくれました。まさか、そこからインカレに出場できるまでのチームになるとは思ってもいませんでしたが、先輩が残してくれていったものが積み上がって、3年目にインカレに行けたと思います。私個人としては、ほとんど怪我することなく、ほぼ全試合出させてもらい、充実した4年間でした。私はCBとして足が遅く、背も低く、体は貧弱で(筋トレしろ)、右足は一切蹴れないという現代サッカーでは即クビなそんな中で中京のゴールを守ることは非常に難しいものではありましたが、周りの力を借りながら後悔なくできたかなと思います。皆には試合中や練習中に厳しいことを伝えてきたと思います。時には嫌だなと感じた選手も多くいたでしょう。来年からいなくなるので安心してください(笑)
パパッと4年間を振り返ると入学当初、ほぼ面識のない人たちに囲まれ、居心地が悪い状態が続きました。そっとしておいてほしいのにみんな気を遣って話してきてくれる感じで妙に気持ち悪くて(笑)稲田君(前コーチ)に心配されていたらしいですが、私はそんなことを知らず、ポケーっと過ごしていました(これが素)。最近は皆んな慣れてくれたみたいで、気持ちよくポケーっと過ごせました。2年生はサッカーにのめり込んだ1年。就活もなく、授業とバイトとサッカーそれだけです。サッカーに人生かけすぎました。2度、全国大会を直前に取りこぼす、もどかしい1年でした。3年生、周りを見れるようになった1年。自分が輝くことよりもチームの勝利、味方の活躍を優先できた、大人になった気がしました。インカレに出れた日のあの雰囲気、景色、全て覚えています。あの景色は一生忘れないと思います。インカレ本戦も充実しすぎて、こんなに幸せでいいのかなと思ったくらいでした。小指は薬を飲まないと眠りにつけないほど痛みはありましたが、そんなことも忘れ、就活してることも忘れ、夢の国のように楽しむことができました!!
そして、4年生のラストシーズンは私にとっては非常に厳しいものでした。怪我から始まり、復帰しても、いつもなら取れるボールが取れず入れ替わって失点。いつもならバシッと通る縦パスも全て引っかかる、絶不調。さとこさんにはコンディション上がらなくて、、と初めて泣いて人に相談しました(笑)苦しみながらもインカレに標準を合わせるのは結構得意でなんとかなるっしょと思っていた矢先にまた怪我。その復帰戦はインカレ予選の東邦戦。超重要な試合。身体は40%ぐらいの状態でテーピングもグルグルでキックの感覚は痛みと固定でほぼない。火曜日の練習の時点でスタメン組。私は「大家さん正気かよ」と思いました。正直。もっと、状態がいい選手がいた中でのスタメン。これは4年間の信頼の采配なのかなと思い、選手生命全てを賭けました。45分で足は限界を迎えましたが、私のサッカー人生を代表するような泥臭い試合だったと思います。最後はパッションでしょ。
ありがとうございました!!!!!
1年 12失点
2年 6失点
3年 2失点
4年 4失点
これは3強(名経、東邦、静産)に対してインカレ予選での失点数です。すごいですよね、、
この成長感。この成長の過程を過ごすことができたことが私の財産です。この過程は信じられないくらい苦しかったですが、最後までやってよかったなと思います。
最後にここまで読んでくれた人に伝えたいことがあります。もう少しです。読んでください。DFというポジションは目立ちません。失点に関われば、戦犯扱い。無失点でも勝てば得点者に注目が集まる。そんな中、90分間DFラインを統率し、身体を張って守り、サボることなく声を出し、味方を鼓舞しながら自分の仕事を全うしています。チームのために戦うDF陣を今後、少しでも見ていただければ良いなと思います。
私とセンターバックを組んでくれた、みお、るな、めい、なぎ、ありがとう!特に、みおとるなはよく組みましたね。最初は子鹿さんみたいなヒョロヒョロで入部したみおも今では筋肉お化けで、チームの統率者。対応はまさにファンダイク。るなは対人のプロフェッショナルで、あのスライディングはまだまだ間近でみたかったです。リサンドロマルティネス。こんなに頼りになる相方がいて本当に幸せ者でした。
いくみはもう私の進路についてくるのは辞めてください。(半ば強引に進路決定直前のいくみを引きづりこみました)
おばさん2人(かれん、ゆうき)
君たちは責任感が強いあまり、サッカーで少しでもいいプレーができないと落ち込みますね。楽観的になれと言っても無理だとは思いますが、あまり溜め込みすぎないでね。オバ会しようね。
両親
2人とも社交的すぎて、本当に私と血が繋がってるのか不安になるときもあります。この交流がなくなると一気にボケるんじゃないかって心配なので、リハビリがてら中京の試合見くので、皆様沢山お話ししてあげてください。
2人のおかげでここまで不自由なく、サッカーできたと思います。進路を決める際、サッカーを楽しいものとしてサッカー選手を終えてほしい。この2人の願いは叶えられたと思います。娘のサッカーは終わりますが、清水エスパルスは永遠です。
このサッカー人生に悔いなしです!
死にものぐるいで公式戦を戦う刺激的な日々がなくなると考えると少し寂しさを感じますが、大人しく社会人として働きたいと思います。
17年間に関わり、友達になってくださった皆様ありがとうございました!これからもよろしくお願いします!
